いってらっしゃい。
いつものように見送った後ろ姿が、
大切な人の最期の姿になるかもしれない。
そんなことを、
あの頃の私は知りませんでした。
8月の、ある朝。
目覚ましの音で目を覚ますと、
隣で主人が、身体を少し起こしたまま
遠くを見つめていました。
今思えば、
この時点でもう
何かが違っていたのかもしれません。
「眠れなかったの?」
そう訊くと主人は
「少し寝たんだよ」と答えました。
「久しぶりの東京だから、興奮してるの?」
そんな、いつもの夫婦の会話。
この日、主人は
沖縄から東京へ向かう予定でした。
コロナ禍で、
緊急事態宣言の出ていた東京へ、
仕事のために。
幼稚園に行く息子と一緒に家を出て、
那覇空港行きのリムジンバスに乗る予定でした。
「空港まで送ろうか?」
そう提案すると主人は
少し笑って首を振りました。
「無事に帰れたか、心配になっちゃうから」
その言葉も、
今思えば少し不思議です。
朝ごはんを聞くと
「いらないよ」と主人。
そしてこう言いました。
「三日分くらい、着替え用意してくれる?」
いつもなら
実家を拠点に動くから
着替えなんて持っていかないのに。
――今思えば
おかしいことだらけです。
準備を終えて、三人で家を出ました。
車を降りる前、主人は
窓越しに息子へ向かって言いました。
「泣かないで。」
いつもなら
「ママといい子にして待っててね」
そう言うのに。
ほんの二週間の出張のはずなのに。
それなのに、どこか違う。
方向音痴な主人に
「空港着いたらロビーは三階だよ」と言うと
「大丈夫だよ」
と主人。
そのとき、ふと気づきました。
今朝はハグもキスもしていない。
だから私は
冗談みたいに聞いてみました。
「いってきますのチュは?」
主人は少しだけ間を置いて、
こう言いました。
「しない。」
その声は
どこか元気がありませんでした。
車から離れて
階段を上っていく主人。
振り返ることなく
少しずつ遠ざかっていく背中。
それが
私が見た
主人の最後の姿になりました。
五年が経った今も、
あの日の朝の光景は
私の中で止まったままです。
そしてこの朝から
私の「当たり前」は
静かに崩れていくことになります。
次の記事では
「その日、主人は飛行機に乗らなかった」
という出来事について書きます。

